話せば長過ぎるので簡単にですが、私の少年時代を書こうと思います。
まず父が遊び人でした。
立派な会社には勤めていましたが、まだ私が幼稚園に通う前から帰りは毎晩タクシーで深夜1時過ぎ。
毎晩飲み歩き給料も家にロクに入れず。
もちろんここでは書けないようなことも沢山。
母は結婚早々困り果てていました。
長屋の隣に住んでいた赤の他人の老夫婦がよく「このド不良が!!!」と父の胸ぐらを掴むほど説教しに来てくれましたが効果なし。
30分位歩いたところに父の実家がありましたが、ここでも母はいじめられました。家に風呂がなかったので入らせてもらいに行くのですが、いつも祖父母、兄夫婦とその子供達が入ったあとのドロドロの残り湯が少ししか残っておらず、湯を足しても怒られる。私とまだ赤ん坊だった弟二人を温め、冬などはその往復で子どもたちが風邪を引かないようにするのに苦労したそうです。
母は毎日毎日泣きながら和裁をして私達三人兄弟を育ててくれました。
小さくて事情の分からない私はよく「泣いたらあかん、お母さん、泣いたらあかん」と母の膝に母と向かい合って座り、母の涙を指で拭き、笑って欲しいので頬を両手で持ち上げていたのを覚えています。
大変な生活で私は三歳で双子の弟のおむつを替えるお手伝いをしていたそうです。
しかも弟二人は未熟児で生まれ最初体が弱く、次男は生まれる前に目も見えない、耳も聞こえない可能性がある、覚悟しておいて下さいと医者に言われたそうです。
幸い目も見え耳も聞こえましたが知能の発達は遅く、小学校に上がり次男が二年の時に担任に養護学級に行かないかと言われました。
ちょっと恐い冷たい感じの何でも他人事みたいな話し方をする女の先生でした。
私は弟には沢山お友だちがいるのに引き離されるのは可愛そうだと思いました。
で、職員室に乗り込み大暴れ。
「何でやねん!普通に友達とも仲良く勉強出来るのに!!先生冷たすぎるわ!!!」
と。
そのせいか、同じ日、家に担任から「やっぱり普通学級で頑張りましょう」という知らせだけが来ました。母に私が暴れたということは知らされませんでした。
弟は沢山の方にお世話になり高校卒業まで出来ました。
よかったね。よかったね。とだけ言いました。
私も毎日毎日弟の勉強を見ました。一時間で漢字が二つか三つ覚えられるくらいだったでしょうか。
相変わらず金銭的には大変な生活で、母はとうとう私が小4の時に「心の病」になってしまいました。それまでの優しく笑ってくれていた母とは完全に別人になり恐く厳しくなったのです。
次男は正月も正座で勉強。和裁の長い竹の定規で体中をめった打ちにされ、頭が割れて血がくじらの潮のように吹き出したこともありました。
それでも弟達は勉強が出来なかったので、私に期待したのかお金もないのに勉強勉強と気が狂ったように厳しくなりました。
頭のいい父方の親戚連中に母はずっといじめられていたので、見返してやりたかったのでしょう。
学校にいく時間以外は一切外界と隔離され、爪を切っていても怒られる、朝の6時台に顔を辞書で思いっきり殴られ、何時まで寝てるんや!勉強しなさい!と怒鳴って起こされる。(この時は目が破裂しなくてよかったと心底思いました。)
なので学校は楽しくて楽しくて、私にとってはもう天国のようなところでした。
母が原因で友達を多く失ったこと、どうしてもしたい遊びやスポーツを諦めたことは流石に辛かったです。貴重な青春時代を奪われたような気がしていました。
が、気持ちの何処かでそういう時期なんだろう、兄弟三人とも男でよかった、という楽天的な思いもありました。
本当にかわいそうなのはお母さん。一緒に力を合わせて生き抜こうと弟達と学校にいく途中で誓いました。弟達=弱いものと思っていましたが、弟達を守るためにも力が湧いてきました。
サバイバルです。
引っ越した家(今の実家)は父の勤める建築会社で父が自慢するためにデザインして建てたので激安のわりに近代的で格好だけは良い建物でしたが私は今でも少し嫌いです。牢屋みたいな感覚が消えません。そして実際の暮らしは食べるものも貰い物ばかり。ひどい時は夕食が冬瓜だけ南京だけという日もありました。学校で必要な物も買えません。
勉強するにも問題集もありません。金持ちで勉強しない友達からこっそりもらったり、本屋で立ち読みして勉強しました。
父は相変わらず家族のことには関心がなく、何日かに一度帰って来ては嫌味を言います。そして必ず夜の2時くらいまで大声で夫婦喧嘩です。
父は中学出たら働けと言ってきました。
本当に愛情のない父親でした。話したこともなければ、頭を撫でてもらったこともありません。
母は怒り、沸騰しているヤカンを父に投げつけて大げんかをし、あまりのクレイジーさに父も黙るようになりました。
優しかった頃の母を思い出すと悲しくなることもありましたが、根が明るいというかアホというか深く考えない私は、若さゆえの根拠の無い楽観的な想像やパワーで弟達とそのサバイバルを楽しんで乗り越えようとしていました。
とは言え、テレビも新聞もラジオもカセットテープレコーダーも何もない生活、情報源のない生活は、友人から何も知らない奴とすごく馬鹿にされました。
本当に世間知らずでしたし何も知らなかったし精神的にも幼かった。そしてそれを友達や先生や大人に見抜かれるのがただただ恥ずかしく悔しかったです。
不安だらけの生活の中、無意識に確かなものを求めてか、母と弟が寝てから布団の中に潜って目覚まし時計の暗いところで緑色にほの光る印刷された美しい数字を見て、きれいやな~これだれがどうやって書いてはるんやろ~?きれいやな~と、寂しさと虚しさをまといながらずっと眺めていたのを覚えています。
中2の夏休みなどは一日も一歩も家から外へ出してもらえず、二学期初日に靴を履いて玄関を出た瞬間、無意識に涙がポロポロと流れ落ちました。
もちろん男の子でしたから脱出は容易でしたが、このころの私は母の言うことは何でも全て聞いてやろう、クリアーしてやろうと意地になっていました。
母に「いやだ」と言ったことは一度もありませんでした。
塾にも通わせてもらいましたが、お金が続かずすぐに辞めることに。
ある日塾に行くと尊敬していた小野先生がとても暗い顔をなさって、、
「おい、植田、お母さんから電話があって塾辞めさせると言うてはるぞ。」
「え?何も聞いてません。おかしいな。すぐ帰ります。」
家に帰ると、母は和裁をしていました。
後ろから近づき、
「お母さん・・・あの・・・塾・・・ !!! 」
母は泣いていました。
いつものように塾に行く私にもう通わせられないということがどうしても言えなかったのでしょう。
塾でも4クラスある一番上のDクラス(の最下位でしたがw)で、開眼したかのように学校の成績も上がっていましてから。
もう何も言えませんでした・・・。
母にもっと貧しくてもいいからと強く離婚をすすめましたが、子供のためにと言って頑なにそれは聞いてくれませんでした。
そんなこんなで時は流れ~大学にも合格し、
母も突然晴れ晴れとお友達と外出や旅行などもするようになり、
今でも少し会話がおかしくなる時はあるもののまあ楽しそうです。
(特に主語を言わないので何の話をしているのか分からない。話し出したら2時間以上話が途切れない。)
そして私はといえばしっかり燃え尽き症候群に(笑)
そしてそしてまた時は流れ~~~
そんな私でも優しい今の奥さんと結婚出来ました。
奥さんの体質から無理かもしれないと言われていた子供も二人授かりました。
実家にもよく帰ります。
父は私が大学生になった時に家を出て行ったので実家には全然帰ってきません。
母は子どもたち(孫)にしょっちゅう着物を縫ってくれます。
弟達も自分の家庭をとてもとてもとても大切にします。
40歳になってからですが、沢山の素晴らしい先輩や友人とも知り合えました。人を比べたり、あら探しなどせず、気付いていてもそれは見ないふりをして、大丈夫、気にしないで、よければこうしてみれば?と、私のプラスになることだけを自分のことのように喜んで見守ってくれる方ばかりです。こんなに素敵な人達がいるのか!というくらい素晴らしい方ばかり!
今は幸せです。すごく幸せです。
※決してリッチではありませんが(笑)
でね、、、思うんです。
幸せの方が不幸より怖いなって。
この幸せが壊れることを考えると怖すぎです。
だからこそ子供たちにはしっかり愛情を受けて、大船に乗ったように大いに子供らしく伸び伸びと幸せいっぱいで育って欲しいって。
幸せってかけがえの無いものだって思いっきり気付いて欲しいんです。
怒られる恐さももちろん恐いですが、
幸せが壊れる怖さは、比べ物にならないくらい怖いです。
きっと幸せを作り維持するのって簡単なようで簡単ではないからでしょうね。
そして本当の愛情と本当の怖さは表裏一体ですね。
そういう愛情ゆえ幸せゆえの怖さを知る人は、豊かで、深く、おおらかで、同時に、人の心の痛み悲しみが分かり、優しく、繊細で、ゆくゆくは強い人になれるのではないでしょうか?
そんなことを少し思いながら毎日我が子や塾の生徒さんと接しています。
ですので、面談などで保護者様から
「先生優しいから。もっと厳しく怒って下さいね。」
って言われると少し心がチクっと痛みます。
そしてこのように仰るお家の方はことあるごとに口やかましくお子さんに怒っておられますが、ほぼ例外なく失敗しておられる。お子さんは親の言うことを殆ど聞き流しています。
本人の心の中に湧き起こる本当の怖さを教えておられないからではないでしょうか?
でも時には厳しく叱ることも大切ですね。
そこは愛情をもって厳しく叱らせて頂かないといけませんね。
私事で乱文長文失礼いたしました m(__)m