国語は全ての教科の基礎。私たち日本人は日本語という言語でものを考えています。当たり前すぎて意識しないこともありますが、睡眠中の夢であっても日本語で考えて見ます。つまり私たちは日本語なしにはほとんどものが考えられないのです。ものが考えられないと、勿論ものを組み立てて考えることも出来ないので脳が発達しません。
さてこの日本語の語彙力・読解力・聴解力・活用表現能力が低いとどういうことになるでしょうか?これは他塾の先生の受け売りですがコンピュータで言うところのOS(ハードを動かすためのwindowsなどのオペレーティングシステム)が脆弱であると例えられます。20年前のコンピュータと現在のコンピュータやスマホを比べてみますと、そのスピード、出来ることの違いは歴然です。コンピュータやスマホは進化していますが、今の子どもたちの国語力は20年前の子どもたちの国語力よりも退化しているのではないでしょうか。
こういった基本性能=基本能力はほとんど小学生のうちに出来上がってしまうのです。言い換えればそのために小学校があると言っても大袈裟ではないかも知れません。もちろん国語のためだけに小学校があるわけではありませんが、それほど重要な時期に同年代と沢山の学びから言語を学べる小学校は素晴らしい仕組みであるということを言いたいのです。
そして小学生のうちに身に着けた国語力がその後の学力の基礎を決定づけてしまうからこそ、この時期をゴールデンタイムと認識し、とても大事にするべきであると考えます。
当塾では現在、漢字、語彙、論理、読解の4つをセットにした国語の授業をしております。かなりの力を入れておりますが、それでも時間がいくらでも欲しいと思うくらいです。
なぜなら私たち大人が過ごしてきた時代の成長過渡期は、昔のことも、当時のことも、未来のことも、ドラマチックに、葛藤しながら、そしてどこかおおらかに考え、学べる「社会的学習インフラ(基盤)」があったと思うのです。子どもの頃、テレビを見てもいいかと親からやっとのことでお許しをもらい(笑)、折角なのに見たいテレビ番組がないときには”仕方なく”時代劇の「水戸黄門」を見ていました。そこで色んな言葉(語彙)や、人情、人・環境・時代とのつながりを覚え知りました。知らず知らずのうちに。水戸黄門のように、テレビに限らずですが、「宝の山」があちこちにあったのです。
今の子どもたちはどうでしょうか?(※一部の大人もですが…)
何でも簡単に手に入ってしまう。考えなくてもITの急成長でゲームやネットの情報でその時間が埋め尽くしてしまえて余りあるほどです。ですから何でも物事を深く考えず簡単に捉えてしまいます。小さな困難でさえ、すぐに人のせいにしたり、言い訳や口応えの即答には背筋がヒヤッと凍りそうな思いをします。(そしてそういう場合の対応にも慣れてしまったほどです。)何でもつながりのブチブチ分断されたその場限りの理屈だけの正論でものを考えます。これは大人でも最近そうですね。煩わしさのない薄情な人間を作ってしまう環境が整っています。
…そんな傾向があるように思います。
こういった現状を忘れずに、幼いうちからそうはならない様に、机上の修練だけではない国語の教育を考える必要があると考えております。
参照 東洋経済オンライン
https://toyokeizai.net/articles/-/308700